ダストボックス

メンタル安定のための吐き捨て場。

子どもの頃。

今でこそ接客業をやっているが、昔の私は外でまったく喋らない子どもだった。


出席を取られる時、授業で当てられた時。


必要最低限のことをぽつりと言って済ますような。


たまに喋ったら「珍しい」と言われるような子どもだった。



家では普通、よりは大人しかったとは思うが、それなりに喋れた。


とにかく外で喋れなかった。


「口が堅い」という良いイメージも持たれた一方で、誰にも言えないだろうというのを見越してのいじめにもあった。


気の強い女子一人から。その子とクラスが離れたと思ったら、その女子の腰巾着の男子一人から。


トイレに連れ込まれて服を脱がされたり、教科書を破られたり、靴を隠されたり。


流石にプールで泳いでいる時に足を引っ張られた時には、もがくフリをして蹴り返したが。


集団でのいじめに発展はしなかったものの、小学校3年から6年までその二人にいじめを受けた日々はつらくて仕方がなかった。


多分、いじめられていると誰かに泣いて訴えれば助かったのだと思う。


他の同級生や先生から見れば、あの二人より、私の信頼は厚かったと思う。


でも何も言えないまま卒業して、中学で新しい人間関係が増えたことによって、いじめは終息した。






大人になってから読んだ小説で『場面緘黙症』という言葉を知った。


加納朋子さんの『トオリヌケ キンシ』。

トオリヌケ キンシ
トオリヌケ キンシ
文藝春秋


ある特定の場面や状況で話すことができなくなってしまう精神疾患。


ああ私だ、と思った。夢中で調べた。


子どもの頃の私と完全に重なる症状がそこには列記されていた。


この本を読んだのはもう数年前になるが、ひどく救われた気持ちになったのを今でも覚えている。


精神疾患だったのがわかって救われた、なんておかしいと言われるかもしれない。


でも、あの頃の私の上手く喋ることの出来ないつらさ、もどかしさに名前が付いていた。


わかってくれる人は周りにはいなかったけれど、ほんの少し外に目を向ければ同じような子どもたちがいて、治そうとしてくれるお医者さんがいたんだ。


そのことがとても嬉しかった。



本を読むのが好きだ。物語というものが好きだ。フィクションの中に生きる人が好きだ。


読書は楽しければいい。人生の教訓が欲しいわけじゃない。


だけど不意に出会った一つの物語に心を救われることがあってもいい。